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›7 14, 2009
医師とブランコと想像力
昨年こんなことがありました。チビが通っている町営の保育所の遊具が「耐用年数がきたから撤去します。」と、役所からお知らせがきたのです。「ブランコが無い幼稚園」を想像しろと言われたみたいで、一瞬絶句しました。想像できません。
今こんなことも起きています。町営の斜里国保病院の存続が危ぶまれているのです。以前、非常勤で来てくださっていた栂嶺先生のブログに、医師達の悲鳴に近い訴えと斜里町への叱咤、そして現状が書かれています。
→栂嶺医師のBLOG
余談ですが栂嶺先生は医師の傍らプロカメラマンとしても活躍されていて、自然だけじゃない知床の人の営みをきちんと捉えた『知床開拓スピリット—栂嶺レイ写真集 』を出版されたことでもわかる通り、人間愛に満ちた素晴らしい方です。僕も溶連菌に罹った時にお世話になり、また本や活動について感銘を受けてお手紙を出させていただいたご縁で、事務所に足を運んでくださったり・・・といった関係を作らせてもらっています。
彼女のBLOGの中でこのようなことが書かれていました。
(以下引用)
斜里町を見ていて、最も欠如しているのは「想像力」だと感じます。「自分以外のもの」に対する想像力。「今以外」を思い浮かべてみる力(未来を想像する力、過去を思う力、目先のことではなく)
想像力の欠如は、すなわち、国保病院や、そこで苦労して働いている人々、常勤医師たちへの思いやりのなさとして表れてきました。そして今、病院の枠からはみ出して、町民自身や子供たちへの思いやりのなさに変わろうとしています。
(引用終わり)
栂嶺先生は、役場や理事者が動かないので、町民が動かせ!とハッパをかけてくださっています。実際にさまざまな動きが出てきていますが、一方でライフラインを住民運動で維持することに対して違和感を持つ人が多いのも事実です。それは、冒頭の「ブランコが無い幼稚園」を想像するようなことことを、仕事をしないだけの行政のために住民が強いられることに対しての怒りがあるからです。
斜里町の役場職員は良くも悪くもとてもマジメです。否、行政マンならあたりまえのことなのかもしれませんが、「公僕は一部の意見で動くわけにはいきません。」と真っ当なことを僕たちに言ってきます。でも「保育園にブランコが無くなることはオカシイ」という意見は、僕一人の意見ではないですよねえ・・・。声を出さなくても、「え?それがフツーでしょ」という感覚だけで僕たちは暮らしています。きっと、役場の職員だってそう思っているはずです。家に帰れば奥さんに「あんた何とかしなさいよ!」と言われているにちがいありません。ブランコを撤去するにも、新設するにも、補修するにも、どっちにせよひと仕事なんだから、先手を打って動いたって誰も文句は言わないはずです。だけどやらない・・・。同じように病院の建物はあるけど医者がいないなんてことも、僕たちは夢にも思いません。それが「フツー」だからです。だけどやらない・・・。
やれないのか、やらしてくれないのか、やる気がないのか(そんなことはない印象です)、やる能力がないのか(これもないと思います)、僕たち住民には全く理解ができません。多くの職員とお付き合いしていると、やる気に満ちた職員が「やれない」何かがあるという印象を受けています。でも、わかりません、確かめたわけではありません。
お役所は僕一人の意見に対しては「いや〜」とか「あ〜」とかはぐらかすだけなので、結局は要望書を提出します。ちょっとした運動です。保育所の遊具については、耐用年数がわかっているならそれにあわせて何らかの対策をとったり、お金がないなら例えば基金を募るとか準備ができるはずです。もちろん役所の人が来た説明会の時には、そのことも住民の怒りとしてぶつけていますが、最終的には父母の会の名前で要望書を出します。自治会にも後押しをお願いしたり・・・と、これぐらいのことですが一住民としては大変な手間の運動をします。でも、要望書を出してしまった時点で、そのような「事務機能の不全」という問題の根幹はどこかへ消え去ってしまい、「作ってください」「はい出来ました」という関係ができるだけです。子供は喜び、役場の担当者にはちょっとした達成感が残るでしょう。でもまた、新しい遊具の耐用年数がきたら同じことが起きるかもしれません。だいたいが3年で卒園していってしまう父兄達が、その耐用年数を気にして暮らすわけにはいきません。また、そのときに僕がやったような運動を別の父兄がやるとは限りません。そんなときのために長い視野で住民の暮らしを守る、プロとしての行政の担当者がいるわけです。それがすっかり機能不全なのです。
「意識の問題」というより「役場内の業務改善の課題」なのですが、放っておいている住民が悪いと言われます。確かに僕の身の回りも、「アイツはオレの親戚だから」ぐらいの理由で、追及をしない人を大勢見ます。僕の周りでそうなのだから、斜里町民は何もしていない・・・と言われても仕方が無いほど、馴れ合いなのだということは容易に想像できます。そういう意味で「住民がうるさく要望しているから、動いてやる。」という口実が役場と親戚の住民の方のメンツには必要なのかもしれません。そして住民は運動をするのです。ライフラインの維持に運動ねえ・・・とは思いつつ・・・。
このように斜里町では何でも運動をしなければ動いてくれません。もう慣れっこです。栂嶺先生が仰るように住民から圧力をかけなきゃということが実はもう恒常的になっていて、それがかえって行政のプロ根性に甘えを生ませていると思っています。住民から要望があがってくるのもプロセスのうち。そんな状況を作ってしまったことを、僕は住民として反省しています。今回の医師の問題もブランコの例も根っこは同じです。人の命と遊具を一緒にするなと言う声も聞こえてきそうですが、僕が言いたいのはそんなに大げさなことではなく、フツーの住民がフォローしきれない超長期的な仕事を、行政がフツーにこなしていれば、こんなことにはならなかっただろうということです。単なる事務処理の機能不全です。4年後に契約が切れることがわかっているなら、医師の補充、それができないなら新たな体制を考える、それ以前に現場の業務改善なり、無理を強いているのであれば礼を尽くすなど、あたりまえの仕事をチャンとしてよ、ということに尽きる気がします。
さらに、「今、医者がいなくなろうとしているのに、責任論を言ってどうする!そんなことを言う前に医者を探してこい!」なんていう声も聞こえてきそうです。実際に現場を切り盛りし、今回自身の辞表を持ってこの問題を町に問うている院長先生に至っては、本当に気の毒・・・としか言いようがありません(野津先生の日記)。そして敬意を表します。しかし、それでも僕はプロがいるならプロが仕事をするべきだと思います。時には住民運動も良いかもしれませんが、特にライフラインやインフラについては行政の行政たるゆえんのような仕事の領域でしょう。しっかり仕事せい!という意味も込めて、突っぱねるのも町民の役目だと思います。
ま、でもさしあたっての要望書は出すのでしょうが・・・これがいけないのです・・・。