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›6 11, 2009
自然環境保全とリスク
知床でさまざまな活動をしていると感じることが一つあります。それは「正論は聞き飽きた」ということです。
今、環境の時代に入り誰もが自然環境を大切にしようということが行動指針の一つになりました。全ての人や企業(といっても過言ではないと思います)が、自然環境に及ぼす影響を最小限に抑えようと思いながら、生活や事業を行うようになりました。
でも、知床で議論が紛糾するのはなぜか正論です。「この素晴らしい知床の自然環境を未来永劫保全しよう」とか、「知床の生態系の多様性を維持しよう」とか、いろいろな言い方はありますが、これに反対する人は誰もいません。なのに、議論は紛糾します。これは何故なのでしょう。
とても乱暴な例えかもしれませんが、「私の方が彼を愛している!」「いや、私の方が彼を愛している!」という言い争いに近いからです。そういう時間はムダ。「知床を愛してやまない人が集まりました」でその議論は終了。で、次が大事なのです。
そんなことよりも、管理者がどうしたいか、利用者がどうしたいか、第3者の利用者がどうして欲しいか、の意志のぶつけ合いが大切です。そして、各主体の意志の裏に、背負うリスクの大小を意識する必要があります。
僕は日本で自然を語る際に最も足りないのはこの部分だと思っています。自然雑誌のBe-PALが「日本人には野生力が足りない」というメッセージを出しましたが、僕も全くその通りだと思います。自然は優しくて、美しくて、僕たちを癒してくれる面もありますが、それと同じぐらい、とても厳しく、残酷で、グロテスクな面も大切です。ゲリラ豪雨なんて言うけど自然に対してゲリラはないでしょう。防衛本能をなくしている僕たちが情けないだけです。
自然保護に際して「人間は自然に対して何もしない」というのも一つの意志です。同時にそれはさまざまなリスクを背負うことも同時に腹をくくらなければならないのです。
例えば、知床の場合はヒグマが生息しています。食物連鎖の頂点にある彼らが生息しているということは、生態系が理想に近いカタチで保たれていることを意味します。僕はこの環境を維持したいと思いますし、このすごさを多くの人に知ってもらいたいという意志をもっています。この点だけいえば「何もするな」という意志も持っています。ヒグマは臆病で控えめで山菜ばかり食べている平和な動物です。「クマ出没注意!」なんていう凶暴なイメージからはかけ離れた実態を持っています。僕たちはそうした様子を多く見てきたので、共存の可能性という道を選ぶと言う意志を持っています。
一方で、やはりヒグマは猛獣です。どんなに注意していても一発のパンチで僕の内蔵はえぐりとられるでしょう。ヒグマに襲われた死体はそれはそれは惨いものです。自分の子供がそんな死に方をしたらと思うとぞっとしますが、そのリスクを背負っています。
行政も同じです。自らが管理している国有林や国立公園でヒグマによる事故が起きたら、必ず管理責任を問われます。他の地域でやっているように見つけたら射殺をしてしまえば、そのリスクを背負う必要は無くなります。しかし、知床に関わる行政はヒグマを保護する意志を持っています。ちなみに知床の多くの主体が関わり、新しい取り組みの第一歩を踏み出しました。問題は山積みですが、確実にどこかに向かって歩み始めたことは事実です。僕は強硬に反対もしてきましたが、長い視点で見れば素晴らしいことだと思っています。
ところで「自然保護」という言葉や思いには「自然からうける恩恵のイメージ」が強く作用している気がします。僕は北海道の針広混交林が「自然」だと思うし、素敵でもあり極めて危険でもある原生林を歩いた時の内面に響くスピリチュアルな雰囲気が好きです。しかし、家内のお父さんはインドネシアの田圃が「自然」だといい、その風景に癒されると言います。僕は泳いだりサーフィンしたりが好きなので、海の表層1mぐらいの自然ならよく知っていますが、ダイビングをされる方は20mの海中こそが自然だと感じているでしょう。実家に帰ると3面護岸の川でコイを釣るのが今でも楽しみです。それは僕の子供の頃の「自然体験」に他ならないのですが、そんな川は「自然」じゃないという人の方が多いでしょう。僕が幼少の頃は、実家近くの多摩ニュータウンの山という山が削られて、せっかくの遊び場が無くなったといつも泣いていましたが、知床から来たうちのチビ達が、再生された森や川で楽しそうに遊んでいます。気がついたら木は大きくなり、30年前は人工のドブにしか見えなかった川に、たくさんの水生昆虫が蘇っていました。それは、ウチのチビ達にとって「自然体験」でしょう。
冒頭でも書きましたが、どんな自然を保全したいのか?と言うことは「自然からうける恩恵のイメージ」が個人的な経験にすぎないので、話し合いで解決することではないような気がします。それよりも、特に都市部の自然環境を取り巻く課題に要求されていることは、ウカウカしているとどんどん育ってしまう子供達に、年齢に応じた今できる自然体験をさせることです。そして、決してマイナスの情報を入れないことです。僕も当時、大人が破壊した自然の記憶は鮮明に残っていますが、一方で僕なりの自然感は育っています。確かに怒りに伴う記憶も多いですが、今では自然環境に関わる仕事をする上でのパッションになっています。そういえば、小さい頃、東京都の環境週間のポスターに、多摩ニュータウン開発で見てきた破壊の様子を絵にしたら、入選し東京都から表彰されたこともありました。ニュータウン構想を推進する東京都が僕の絵を表彰してくれたことって面白いと思いませんか?どのような思惑があったにせよ、当時、僕は自分のメッセージが伝わった気がして、心の中の何かがスッと晴れた感覚を昨日のことのように覚えています。自然を破壊するのも大人、傷ついた心を救うのも大人。その両面が都市部の大人の持たなければならないリスクなのかもしれません。