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›6 24, 2009
利用・コントロール・実験
知床五湖で「知床五湖利用コントロール導入実験」が行われました。僕も昨日担当する予定でしたが嵐でガイドすることができず、今日、shinraの他のガイドが担当するツアーに客として参加してきました。

ツアーは先日から来ていただいているかの有名なエコツーリズムエージェントリボーンの先住民族エコツアー。本当は1日知床周辺のチャシを巡る予定でしたが、昨日実施できなかったメニューをギュッと詰め込まなければならないこともあり、急遽先住民族ガイドの早坂さんが五湖のガイドも担当することになりました。
この制度は「ヒグマの出没」によって恒常的に閉鎖されている知床五湖奥の遊歩道を、ヒグマ対応ができる引率者のもと、限られた人数・時間でのみ楽しめるようにするという入れ込み制限です。お役所は「調整」というのですが、実際は環境省の「利用調整地区制度」や「エコツーリズム推進法」など、いくつか候補が挙がっている法の網をかけるいわば「規制」。ちなみに僕は「規制」することも、行政の意志であれば尊重するべきだという考えを持っています。しかし、お客様が「規制」と感じる必要は全くありません。そういう点で、ガイドがサービスとしておもてなしをするという発想の今回の実験に至る過程は大事にしたいと思い、この「導入実験」にも協力をしています。
この制度では、ヒグマが出没した際にヒグマの行き先を塞ぐことなく、うまくエスケープするためにある程度間隔を置いてガイドがお客様を引率し遊歩道に入っていきます。また、ヒグマ出没時の対処方法などのレクチャーを事前に行う必要もあるために、スタート前にさまざまな手続きをしました。面白いのはレクチャーを受けた人がうけとる認定証。

僕もお客さんと言う立場でしたのでこの輝かしい認定証を手にしました。

知床五湖はいつものことながら素晴らしい景色。ヒグマがでてきてくれればこの実験の趣旨にも合う(?)のですが、わずかに痕跡がある程度。そんなに出てくるものではありません。恐らくこれからも出くわす機会はほとんどないでしょう。

それよりも、今日気になったのはお客様の受け取り方。"国立公園の「利用」、利用者の「コントロール」、利用者への「実験」"・・・と、考えてみたら言葉にすると失礼なことを僕たち地域はお客様に押し付けていたのではなかったのか?と反省しています。行政がつけた実験の名前「知床五湖利用コントロール導入実験」というように、お客様を単に「利用者」「コントロールする対象」「実験をする対象」というような姿勢を見せていなかったか?ということです。

もちろん言うまでもなく、管理者サイド(行政)もガイド事業者も、地元の観光業者もお客様を大切に思う気持ちには変わりはありません。管理者は事故が無いように遊歩道を整備していますし、ガイドも限られた時間で充分知床を知ってもらおうと、おもてなしをしています。双方、事故が無いように細心の注意を払っていますし、事故が起きた際のリスクマネジメントもそれぞれの主体が切磋琢磨しているところです。
しかし今回の制度の特徴は、管理者の立場がぐっとガイド事業者の領域に入り込んできたことです。管理者はある範囲の安全管理をガイド事業者に委ねるために、ある一定の条件や仕組みを要請してきます。そんな議論の中で行政の立場は充分に理解できるのですが、残念なのは今はこれが一方的で、僕の言うようなおもてなしの領域を管理者サイドが理解するに至っていないということです。係のスタッフ達はにこやかに誠実に一生懸命やっていましたが、行政を中心とした事務局が設けた受け付けの仕方、アンケートの取り方、電機柵の貼り方一つ一つを見ても、お客様を見つめる立ち位置に大きな違いがあり、その溝は容易には埋まらないだろうなあと、ショックを受けています。そして、それをチェックしてきたつもりでしたが、全くできていなかった自分に自己嫌悪を覚えています。お客様の立場で参加して見えた現実です。猛省。
行政と民間が連携する際の、行政側の致命的なまでのホスピタリティの欠落という溝を、これから埋めていく努力をしなければなりません。先日テレビでマナー研修をやっている自治体の様子を見ましたが、同じように一から理解してもらうしか無いのでしょうか。ちょっと気が遠くなってきました。
›6 19, 2009
夏のホワイトゲレンデ

誰が植えたかの、ウナベツスキー場に白い菊が咲いています。
以前からお知らせしている「知床観光圏」の事業で、僕が担当ではないプロジェクトの一つに「ウナベツスキー場を花で埋めよう」というアイデアが出ています。今日は、そんなスキー場に関わるプロジェクトを担当する人が集まっての会議があり出かけてきました。
「冬になると毎日、圧雪車で踏み固められるような場所でも育ち続ける多年草なんてあるのか??」と、花植えプロジェクトの方々は頭を悩ませていましたが、「ねえねえ、あそこ、花咲いてない?」とゲレンデを登っていくと、そこには真っ白なお花畑が。何でも、以前から町内のある方が、毎年この一角で花を植えていたとのこと。あーでもないこーでもないと悩んでいた花植えプロの面々は拍子抜けした様子です。
花を植えた方に聞くと「スキーが大好きなので夏もゲレンデが白かったらいいなあ。」という思いで植えていたのだそう。その方のノウハウを活用させてもらいながら、さっそくこのプロジェクトが動き始めました。
こういったことを、最初にさらりとやってしまう人って、つくづく素敵だな〜と思います。
会議ではアイデアは出ても新しい行動は生まれません。調整抜きのたった一人の行動が、物事を動かすのです。アイデアも口で言っている間はあまり意味を持ちません。やっちゃうことが大切なのです。
僕のプロジェクトも延々続くかのように思われた顔合わせのような会議はほぼ終わりました。あとは、ヤルだけ。詳細が決まりましたらお知らせしま〜す。
›6 17, 2009
にってれん
先日、こんなニュースを目にした。手酌には少々うるさい僕である。
リンク切れご容赦↓
長野県職員の宴会「お酌禁止令」 副知事が音頭、大歓迎
僕はお酒は大好きなのだが、体質的にそれほど強いわけではない。これは結構厄介なものだ。周りはおいしそうに飲んでいる僕に当然お酌をしてくれる。これは嬉しい。でも、その気持ちは充分に受け取りつつも、飲めないのである。これは辛い。
そんな僕に気兼ねのない宴席を演出してくれるようになったのが、日本手酌連盟(略して「にってれん」)である。にってれんは全国組織であり(ウソ)、誰もが会長だ。僕は友人からにってれんを紹介されたのだが、彼女も自分のことを会長だと言っていた。ちなみに、僕も会長を名乗っている。
にってれんは宴席で角の立たないように楽しく手酌の良さを普及することを目的としている。冒頭のニュースにあるような、結局は上からのパワハラのような「お酌禁止」というようなことは決していわず、実に大人の対応で、気がついたらその場が手酌の場になっていた、というのが理想の姿である。
そういう意味では、にってれんの会長は、どちらかというと、宴会部長タイプではないとなかなかに務まらない、宴会エリートといっても過言ではないのである(ウソ)。
にってれんでは、最初のお酌は喜んで頂戴し、こちらからも積極的にお酌に回る。その際に、「実は私、にってれんの会長をやっておりまして・・・」と切り出す。その際「私も自分のペースで飲みたかったんですよ!」という相手からの反応があればしめたもの。そういった反応がなくても「にってれんって?」という話題づくりに役立つこと間違いなしで、知らず知らずのうちに、手酌が宴席での一つの話題になることもしばしばだ。この点は一人酒を追求する団体、日本手酌協会(にってきょう)とは違う(ウソウソ)。
一方でにってれんは、空いているグラスに気を配ることも怠らない。その人は、もしかしたらにってれんの活動に反感を持っているのかもしれない。その場合は、きちんとお酌をする。「あれ、チミは手酌をしろというのではないのかね?ん?」と、嫌味を言われても、「いえ、みんながおいしいお酒を飲むのが目的ですから。」とあくまで大人に、かつ正論で切り返すのが理想だ。また、事前に地域性をリサーチすることもお忘れなく。ちなみに東北では通用しなかった、というか、気にもとめずたっぷりとお酌いただいた(ま、それはそれで幸せなのだが)。
にってれんの活動に興味を持った方は、自分でかってに「にってれん会長」を名乗って、日本中に手酌の輪を広げてください。まだないのですが「え!?貴方もにってれん!?僕もですよ〜!」となる日と夢見ています。
›6 11, 2009
自然環境保全とリスク
知床でさまざまな活動をしていると感じることが一つあります。それは「正論は聞き飽きた」ということです。
今、環境の時代に入り誰もが自然環境を大切にしようということが行動指針の一つになりました。全ての人や企業(といっても過言ではないと思います)が、自然環境に及ぼす影響を最小限に抑えようと思いながら、生活や事業を行うようになりました。
でも、知床で議論が紛糾するのはなぜか正論です。「この素晴らしい知床の自然環境を未来永劫保全しよう」とか、「知床の生態系の多様性を維持しよう」とか、いろいろな言い方はありますが、これに反対する人は誰もいません。なのに、議論は紛糾します。これは何故なのでしょう。
とても乱暴な例えかもしれませんが、「私の方が彼を愛している!」「いや、私の方が彼を愛している!」という言い争いに近いからです。そういう時間はムダ。「知床を愛してやまない人が集まりました」でその議論は終了。で、次が大事なのです。
そんなことよりも、管理者がどうしたいか、利用者がどうしたいか、第3者の利用者がどうして欲しいか、の意志のぶつけ合いが大切です。そして、各主体の意志の裏に、背負うリスクの大小を意識する必要があります。
僕は日本で自然を語る際に最も足りないのはこの部分だと思っています。自然雑誌のBe-PALが「日本人には野生力が足りない」というメッセージを出しましたが、僕も全くその通りだと思います。自然は優しくて、美しくて、僕たちを癒してくれる面もありますが、それと同じぐらい、とても厳しく、残酷で、グロテスクな面も大切です。ゲリラ豪雨なんて言うけど自然に対してゲリラはないでしょう。防衛本能をなくしている僕たちが情けないだけです。
自然保護に際して「人間は自然に対して何もしない」というのも一つの意志です。同時にそれはさまざまなリスクを背負うことも同時に腹をくくらなければならないのです。
例えば、知床の場合はヒグマが生息しています。食物連鎖の頂点にある彼らが生息しているということは、生態系が理想に近いカタチで保たれていることを意味します。僕はこの環境を維持したいと思いますし、このすごさを多くの人に知ってもらいたいという意志をもっています。この点だけいえば「何もするな」という意志も持っています。ヒグマは臆病で控えめで山菜ばかり食べている平和な動物です。「クマ出没注意!」なんていう凶暴なイメージからはかけ離れた実態を持っています。僕たちはそうした様子を多く見てきたので、共存の可能性という道を選ぶと言う意志を持っています。
一方で、やはりヒグマは猛獣です。どんなに注意していても一発のパンチで僕の内蔵はえぐりとられるでしょう。ヒグマに襲われた死体はそれはそれは惨いものです。自分の子供がそんな死に方をしたらと思うとぞっとしますが、そのリスクを背負っています。
行政も同じです。自らが管理している国有林や国立公園でヒグマによる事故が起きたら、必ず管理責任を問われます。他の地域でやっているように見つけたら射殺をしてしまえば、そのリスクを背負う必要は無くなります。しかし、知床に関わる行政はヒグマを保護する意志を持っています。ちなみに知床の多くの主体が関わり、新しい取り組みの第一歩を踏み出しました。問題は山積みですが、確実にどこかに向かって歩み始めたことは事実です。僕は強硬に反対もしてきましたが、長い視点で見れば素晴らしいことだと思っています。
ところで「自然保護」という言葉や思いには「自然からうける恩恵のイメージ」が強く作用している気がします。僕は北海道の針広混交林が「自然」だと思うし、素敵でもあり極めて危険でもある原生林を歩いた時の内面に響くスピリチュアルな雰囲気が好きです。しかし、家内のお父さんはインドネシアの田圃が「自然」だといい、その風景に癒されると言います。僕は泳いだりサーフィンしたりが好きなので、海の表層1mぐらいの自然ならよく知っていますが、ダイビングをされる方は20mの海中こそが自然だと感じているでしょう。実家に帰ると3面護岸の川でコイを釣るのが今でも楽しみです。それは僕の子供の頃の「自然体験」に他ならないのですが、そんな川は「自然」じゃないという人の方が多いでしょう。僕が幼少の頃は、実家近くの多摩ニュータウンの山という山が削られて、せっかくの遊び場が無くなったといつも泣いていましたが、知床から来たうちのチビ達が、再生された森や川で楽しそうに遊んでいます。気がついたら木は大きくなり、30年前は人工のドブにしか見えなかった川に、たくさんの水生昆虫が蘇っていました。それは、ウチのチビ達にとって「自然体験」でしょう。
冒頭でも書きましたが、どんな自然を保全したいのか?と言うことは「自然からうける恩恵のイメージ」が個人的な経験にすぎないので、話し合いで解決することではないような気がします。それよりも、特に都市部の自然環境を取り巻く課題に要求されていることは、ウカウカしているとどんどん育ってしまう子供達に、年齢に応じた今できる自然体験をさせることです。そして、決してマイナスの情報を入れないことです。僕も当時、大人が破壊した自然の記憶は鮮明に残っていますが、一方で僕なりの自然感は育っています。確かに怒りに伴う記憶も多いですが、今では自然環境に関わる仕事をする上でのパッションになっています。そういえば、小さい頃、東京都の環境週間のポスターに、多摩ニュータウン開発で見てきた破壊の様子を絵にしたら、入選し東京都から表彰されたこともありました。ニュータウン構想を推進する東京都が僕の絵を表彰してくれたことって面白いと思いませんか?どのような思惑があったにせよ、当時、僕は自分のメッセージが伝わった気がして、心の中の何かがスッと晴れた感覚を昨日のことのように覚えています。自然を破壊するのも大人、傷ついた心を救うのも大人。その両面が都市部の大人の持たなければならないリスクなのかもしれません。