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›3 31, 2009
「おくりびと」〜死を考える
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Slow Life
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オスカー受賞の『おくりびと』を見た。僕には映画に対しての勝手なルールがあって、「死を表現することは反則ワザ」なのである。しかし、『おくりびと』は、死そのものをよく描ききったよなあ・・・と素直に感心した。
人の死は誰でも悲しい。人が死ぬことによって心を動かされない人なんていないと思う。だから映画などの表現の世界で、「死」を盛り込んで感動を誘うのはズルいというのが僕の持論だ。僕は映画の中で、人が死んだり死にそうになった時点で一気にシラケてしまう。否、アルマゲドンでも、タイタニックでも人が死ぬシーンではおいおい泣きながら見ているのだが、僕の勝手な評価はC級以下に落とされてしまうのである。ダメです、簡単に人を死なせちゃ。
余談だが、そうやってみると人が死ぬシーンが全くない映画というのは非常に少ないことに気がつく。そして、一人も死んでいないのに泣けるほどの感動をもたらしてくれる映画に出会うと「さすがだな〜」と思ってしまうのだ。さらに加えて「惚れたハレた」がない・・・というのも僕的には評価が高い。映画なんだから、映画でしかできない世界を表現をしてくれよ。
『おくりびと』の素敵だったところは「不思議な縁」のようなものが裏ストーリーに流れていたところだ。そして「縁」というくくりで見ていくと、人の死や生をも内包していく曼荼羅のような世界観が、ある程度は表現されていたように感じる。海外の目には、日本の美意識とか宗教観縁とかがビビットに映ったのではないだろうか。改めて、オスカーを受賞したことを日本人として誇りに感じることができた。
人は死ぬとどうなるか。
僕はそんな問いに明確な答えを持っている。
それは、灰と水になるだけ、ということだ。
そして、水には死んでいった生き物の記憶が刻まれている。
これは実に感覚的で個人的な体験だが、
あちこちの湖や海で泳いでいるとそう感じるのだ。
水は生命の源であり、同時に死後の行き先だ。
人の縁は水が無ければ生きていけないこの地上で育まれているのだから、
水に刻まれている死者の記憶と、新しい生命の奇跡、
そして地上の縁は結局は同義だ。
この不思議さに身震いし、
今日もモチベーションをあげる。
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›3 21, 2009
シーズン終了
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Alpen
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昨日のカムイスキーリンクスでの大会を最後に、子供達の今シーズンの競技出場は終了。結果は転倒しDF。残念な締めくくりのようだったが、4年生というスポーツにとっては大切な節目を迎えるにあたってモチベーションを保てるのと、課題が見えたと思えば良かったのかもしれない。
見よう見まねで始めたワクシングも、さすがに2年もやり続ければ自分なりのやり方が板についてきた。それにしても毎晩のように手塩にかけたこの板達、そろそろ倉庫にしまっちゃうのかと思うとちょっと寂しい気もする。
ワクシングは、いろいろな人にいろいろとアドバイスを頂いているが、結局はどの人も自己流だ。いや、基本は同じで、勝つためのスペシャルチューンが人それぞれということだ。もっと言えば「秘密」の領域なのだ。
スキーのワクシングをご存じない方にはピンとこないかもしれないが、スキーという競技は選手の技術ももちろんだが、小学生とはいえ100分の1秒で争うスポーツだ。つまりワックスの成否が直接成績に結びついてくる。ワクシングによってスキーが滑るようになるメカニズムは他に譲るが、とにかく塗っては剥がし塗っては剥がしを繰り返す大変な作業なのだ。

固形のロウを専用のアイロンで溶かしながら滑走面に刷り込む。次にせっかく塗ったものを完全に剥がしてしまう。何でも滑走面に染み込んだワックスで滑るのだそうで、塗ったままだとかえってデコボコが残り滑走の抵抗になってしまうのだ。これを繰り返すと実際によくすべるので、これには疑問の余地を挟むだけムダだ。何も考えず、お父さん達は日夜ワックスを塗っては剥がすのである。特にシーズンはじめの頃はあまり板にワックスが「乗っていない」ので、1回のワクシングで5回ぐらい塗っては剥がす。それでも少ない!という人もいるほどで、聞くところによるとシーズンはじめには20回も重ねる人がいると言う。
ちなみにこの「ワックスが乗っていない」というのもとても感覚的な世界で、ワクシングはこうした勘の積み重ねなのだ。感覚と言えば他にも、気温や雪温、湿度、塩分濃度、コース上の日向日陰・・・等々を勘案しながら塗るワックスをチョイスするという必要性もでてくる。でもこれには、プロのワックスマンに聞いても「結局全く同じ環境で全く同じ条件をテストできるわけではないので正解はない。」という。結局、各々の経験と勘の世界なのだ。
そして、そのワックスマンが言っていた大切なこと。「選手がスタート台に乗ったときに『板がよく滑る気がする』と感じられることが、後の滑りにも影響してくる。」研ぎ澄まされた選手の感覚を、精神的に支えてあげることもワックスマンの役目だという。いやはや、お父さん大変です。
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›3 14, 2009
春のスイッチ
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Water
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他の季節には感じないが、春には「今日から春!」という感じの日があるような気がする。昨日がそんな感じの日だった。

午前中は久しぶりに良い波が立っていたので、海開け後はじめて海に入る。まだ体が出来上がっていないのにダブルのサイズはかなり緊張。しかも、ここら辺ではもっともアグレッシブなポイントで水も冷たい。一緒に入っていた一人は巻かれて海底に体をぶつけたとブルーになっている。こういったシチュエーションで心を平静に保つのはまるで修行僧のようだ。穏やかな陽光を浴びながら心はメローに、テイクオフは攻撃的に、一度乗ったらいろいろな覚悟をを決めて突っ走る・・・。今シーズンの幕開けとしてはなかなかに刺激的な朝だった。

帰り道「あ、今日から春だ」と感じた。そういえば、夏に道路沿いで営巣するセキレイがしきりに道を横切るように飛び交っている。自宅そばのカエデの木にもゴジュウカラがメイプルシロップをなめに集まってきている。海が開いていないと見かけないカモメが、普通に空を舞っている。ガイドに出ていたスタッフの何人かがヒグマと出会い、のんびりとシカの死体を食べていたその個体は、お腹が一杯になった様子でトボトボと森に戻っていったそうだ。その痕をワシやカラスがムシャムシャとおこぼれに預かる・・・。こんな春の光景はここ1週間ぐらいで頻繁に見かけるようになっていた。春は既にやってきていたのに、臨界点のように春の切れ目を感じているのは、僕だけなのだろうか?

毎年この時期になると現れるこの虫、セッケイカワゲラも僕と同じような感覚を持っているに違いないと親近感を持っている。ある日から突然とぼとぼとはい出してきて、なぜか知らないが延々と太陽(光の方角)に向かって歩き続けるという不思議な習性をもつ。いったい何があるというのだ!?太陽に向かって、ただただ歩く!歩く!歩く!なかなかに熱いヤツだ。調べると、結婚相手を探すための習性のようだが、僕はそれよりも「よし!歩くぞ!」と、雪の下からはい出てくるそのきっかけを知りたい。気分を切り替えすぎだ。
セッケイカワゲラは生態研究があまりされておらず、よく見かけるわりには未知の昆虫だと言われている。その中でもわかっているのは、あたたか過ぎても生きていけず、ある程度寒くないと生きられないということだ。寒さの中でも動けるように、彼らは血中の特殊な成分を調整できるようになっているという。そうか、人間も春は体調が変化しやすい季節だ。こうした体内のホルモンバランスが、何かをきっかけに切り替わっているのは一緒かもしれない。自分でもわからない自分の体だが、カワゲラのように春のスイッチが入る面白さを自覚しておくのは僕の密かな楽しみだ。
世間では季節による体の変化を自覚できていないから、脳がパニックを起こし5月病なんて言う診断が出るのかもしれない。しかし、人間は季節の中で体調を整えながら暮らしていくすべを自らの体の中に備えている。これを意識することを、中国の気功やインドのヨガ、日本で言えば二十四節季などを通して、人は続けてきた。その機能が失われていることが、世の人の鬱化(?)を助長しているように思えてならない。
環境の変化に合わせて体と脳の関係を整えていくことは、自然と結びついた生活をしていると自ずとできるようだ。似た話は水泳指導の「水慣れ」にも言える。水の中に体を入れると、水圧で心拍数が下がり血圧も下がる。泳げない人の脳は「自分は水が恐くて心拍数や血圧が上がるはずなのに、何故下がっているのだ??」と状況が判断できずパニックに陥いる。体の変化を以外と脳は理解できないらしい。泳ぐ練習をする前に、とにかく水に入ることを体と脳に慣れさせる。そうすると、スムースに泳法の習得に移れる。人の活動の幅が広がる瞬間だ。
水慣れや、シーズン最初でデカ過ぎる波を前にした時に心を平静に保つことは、その環境にできるだけ長く身をさらすことによって得られる。脳に多くの予測不可能性をできるだけたくさん叩き込む。そうすることによって、脳は体の変化を何かの回路で解決してくれるようになるようだ。ってなことは、僕の経験上の話なのだが、先日とある委員会で脳科学者の方も仰ってくれたが、これは自然の中でのセラピーのセオリーそのままなのだと言う。
こうした自然の持つ機能を、病院やカウンセラーと提携して、多くの悩める人に提供できる仕組みができないかと思う今日この頃だ。
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›3 02, 2009
漠然のチカラ
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Scenic Byway
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先週末はシーニックバイウェイの年に1回の報告会。東オホーツクシーニックバイウェイフォーラムという、お題は硬いが、活動に参加している地域の小さな活動団体の小さく地味ながらも骨太の活動に触れられる、毎年楽しみな集まりです。
毎年、15ぐらいの活動団体が5分リレーで次々と活動報告をする方式をとっていますが、これがとても面白いのです。講演なんて30分も聴いていると飽きてもくるのですが、さまざまなテーマがテンポよく話されると、1時間なんてあっという間に過ぎ去ってしまいます。そして、なもない小さな団体の地道な活動を寄せ集めていくと、何となくおぼろげな全体像が浮かび上がってくるように思えるのは僕だけなのでしょうか?
シーニックの活動で悩んでいるのは、40以上ある団体の横のつながりを作ること。これは口で言うのは易しですが、実際にはメールがない団体さんもいるし、FAXすらおぼつかないご年配ばかりの団体もあります。しかも、一つ一つの活動は、例えば「道路脇の植栽を、苗ではなく種からできないかの実験」とか「エキノコッックス根絶のために、キタキツネに虫下しのソーセージを撒き続けている」といった、それ自体が地味で、正直言って興味がわかずに、お互いが関わりを作っていけない、という状況なのです。
行政主導の活動であれば、それらを一堂に会してわざとらしい会議をしたり、ワークショップを開いたりして、何となく横のつながりを作ったような気になり、それでお茶を濁すという場合が多いですが、民間同士の集まりではそうした集まりのための集まりみたいなことはしません。せめて会合のミッションやゴールを示すことはするかもしれませんが、まち作りには一朝一夕のゴールなんてないということを既に構成する団体のみんなが共有しているので、東オホーツクシーニックバイウェイでは、そうしたわかりやすい落としどころは作らないようにしているのです。
このやり方が定着するまでに随分と時間を費やしましたが、3年もやっているとそこらへんがこなれてきて、参加者は短いリレー講演を聴き、ぼんやりとした全体像を敢えて曖昧に捉え、一人一人の解釈と解釈が化学反応をおこし、新しいアイデアや活動が生まれてきます。東オホーツクシーニックバイウェイの凄いところです。
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