今年の正月にアイヌアートプロジェクトの結城さんや北大の小野有五先生とニュージーランドに行くときに「え〜!!これからNZに行くというのに、あの映画見てないの!?信じられない!」とこてんぱんに批判されたののですが、見る機会がなくそのままになっていました。
この映画は、ニュージーランドの先住民族であるマオリに伝わる素敵なお話がベースになっていて、それでいて現代の先住民族が抱える生な悩みがダイレクトに表現されています。お固い学者などが書くと「先住民族の理解のために・・・」なんて推薦しそうですが、単純にドラマとしても映像としても、そして主演の少女(アカデミー賞にノミネートされたそうです)の演技の素晴らしさだけでも満足できる作品だと思います。是非是非。
僕は学者ではないのでうまくは言えませんが、アイヌアートプロジェクトの結城さんたちといろいろな取り組みを通して最も感じる現代の先住民族の共通の悩み(差別とか生活の苦しさなどの、最も差し迫った現実的な悩みとは別に)が「文化」という言葉の定義の問題です。伝統とスピリットとが非常に深く関わりあっていてそこから生まれる様式自体がとても大切なのですが、その「文化」を大切にするあまりに自ら自分たちの「文化」を過去の入れ物の中に、知らず知らずのうちに押し込んでいるときがあるのです。「文化」は常に変化し続けるものだと思いますが(あ〜書けば書くほど、専門家に怒られそうです(笑))、であればそれに気がついた現代を生きる若き先住民族が、先輩たちとケンカをしながら新しいものを生み出していく過程そのものも「文化」として、コミュニティの中や、国などの支援制度の中で尊ばれるべきです。しかし現実には「今変化し続けている文化」を「文化」として捉えていないと感じるときが多いのです。
結城さんはアイヌ民族の血をとても意識して、その血からわき起こるパッションをさまざまな表現に結びつけていこうと努力しています。しかし「それはアイヌ文化じゃない」とあからさまに否定されるときがあると言います。アイヌは版画なんか作らない、ロックはアイヌ音楽とは関係ない、ユーカラを自分で作るとは何事だ・・・。そんなとき、単純な僕は腹を立ててしまうのですが、結城さんはとても悲しい表情をするだけです。僕たちは何といわれようと「関係ねえよ」で片付けられるかも知れませんが、結城さんにはそれはできないでしょう。「これはアイヌ的かそれとも違うか?」を常に意識しなければならないので・・・。この葛藤こそが「文化」そのものだと思うのですが、悩んでいることに重きを置く「文化」の話しはあまり聞きません。もしかしたら、こんなにつらつらと書き連ねなくても「○○文化論」みたいに一言で言い表す学問もありそうですが、(ご存知な方は教えてください。)いずれにしてもそんな中で人間の全ての意欲の根源だと思う創造性を削がれることはとても悲しいことだと思います。それでもまた再起する結城さんを、僕は本当に精神力の強い人だなあと尊敬しています。
映画を見終わって、結城さんが話していたこんな言葉を思い出しました。
「アイヌとは民族の名前ではなく文化の名前だ」
日本でも『クジラ島の少女』
のように民族としてだけではなく、文化を伝えられるような映画がアイヌ民族をテーマにして生まれないかな〜と思う夜でした。
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