実はこの日本で誰のものでもない山なんて存在しないし、釣りをするにも地方ごとに遊漁指針があり、海岸で普通に見られる貝にも漁業権が設定されている。自然の中で遊ぶことは、開放的で誰もが「自由」を疑わない。でも、そのほとんどが個人・行政問わず所有者や管理者が“大目に見ているだけ”なのだ。
自然の利用というものを考えた時、個人個人の「自由」の捉えかた、権利所有者の考える「公共性」、そしてそもそも自然の持つ公共性・福祉性みたいなものを社会がどう捉えているか、このことが自然の保護と利用を考える根本的な命題のような気がする。
当然、自然そのものは多様であり、相互が関係しあって予測不可能だ。それを科学や法律で完全に縛ることは、むしろナンセンスに近い。不確実性みたいなものをどのようにこの社会の中に収めておくか。抽象的なようだが、このことは自然災害等を考える時にも相通ずる重要なポイントなのだ。例えばウトロでこんな例がある。
「行政が保護管理しているシカのせいで、住民が怪我をしたらどう責任をとってくれるんだ!」という意見が出たのだ。
僕の暮らすウトロは危険が一杯で、特に今の時期はエゾシカが繁殖期を迎え、気性の荒いオスジカがいつ人を襲うかわからない。そう、ヒグマだってニュースにならないぐらい頻繁に出没している。でも、ウトロの人たちは平気だ。危険度を経験値で予測できるし、何よりそんな危険のさらに上を行く危険に日々身をさらしているようなものだから。
でも100人いて99人が大丈夫と言っていても、1人が「危険」と言い始めたら管理者は何らかの対策を取らなければならない。そんなことは誰もが自己責任の範疇だと言うのだが、何と日本の法律ではこの「自己責任」というヤツを規定できないのだそうだ。アメリカのように免責の看板や、僕たちのツアーでも書いてもらうときがある“誓約書”のような類は、日本の法律紛争では何の役にも立たないのだ。この自己責任というものが確立できない日本では、自分の意志=自由に自然を楽しむことは不可能なのである。僕は大袈裟でなく、これは日本人の危機だと思っている。今はまだグレーゾーンの多い自然地域であっても、その管理が明確になればなるほど日本人と自然との接点はますます無くなっていく。
もちろん、無秩序な利用は絶対に制限するべきである。しかし、この「自己責任」の概念が実は今、最も求められていることの一つのような気がしている。
自分の責任において自然の中に身を置くことができる権利…
時には危険なこともあるだろう。時には誰にも言えないような素晴らしいスピリチュアルな体験をすることもあるだろう。それは、「ああ、何とか自分はこの地球上で生きていけそうだ。」という人間としての実感を感じることのできる貴重な体験なのだ。僕はガイドであるけれども、そういった一人一人の個人的なインスピレーションには、ガイドの関与を極力減らしたいものだ。
凄惨な犯罪が続く中、人生に意義を感じられないでいる人たちに「とりあえず、僕は地球上に存在していても良いんだ…」と自然に認められる、木々の精霊のささやきを耳にするような機会をたくさん作ってあげられたら…と思う。
■日本で環境法といえば…
横浜国立大学 加藤峰夫先生
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