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›4 10, 2002

“自然保護”

Posted by Tatsuya at 23:23 / Category: Community / 0 Comments

 最近「自然保護」という言葉を使う機会が多い。この言葉は、自然について少しでも真剣に考えている人なら、安易に使う言葉ではない。人間が自然に保護されることはあっても、人間が自然全体を「保護する」ことはありえないからである。「自然保護」という言葉を敢えて使うとすれば、行政などの権力的な強制力をもって乱開発を阻止することなどを考えるときだと思っている。僕が最近、この「自然保護」という言葉を口にする機会が増えているというのも、いろいろな行政の委員会に出席しているからだ。「自然保護」という言葉にはこの「権力的な強制力」というニュアンスを含むので、僕はこの言葉を扱う場ではとても注意を払うようにしている。そして、この注意は実はこれから多くの人が共有していかなければならない大切なポイントなのかもしれないと思うようになった。

 知床はナショナルトラストに代表するように、日本の「自然保護」精神の先頭に立ってきた土地だといっても過言ではない。日本中、否、世界中の人が興味を持ち、現実に乱開発もされず今日に至っている。きちんと体系付けて調べたことはないが、戦後、日本中が開発されていったなかで、その開発に地域が「NO」と言ったことは、本当に異例なことだったはずだ。しかも自治体が率先して開発反対路線を取ってきたことは、他に例を見ないのではないだろうか。僕は細かいことは別にして、そういった土壌があることは知床の大きな財産だと思うし、それに惚れて移住したという面が無いわけではない。

 僕が惚れたというのは「自然保護」路線のことではなく、「知床の自然を大切に思う気持ちが、地域性として存在する」という点だ。でも今の時代、この「気持ち」と「自然保護」とはもはや直接結びつけるのは少々無理がある。かつて無計画に日本中の山という山にブルドーザーが入り森を破壊していった時代には、「自然を大切に思う気持ち」は確かに乱開発からの保護という選択肢に結びついたかもしれない。しかし、世界的に自然環境への関心が高まり、一人一人の生活レベルから自然のことを考えなければならなくなった現在、何かから自然を守るというインセンティブは薄れ、人々の全ての活動を通して自然に対してどのような恩返しができるかという一歩進んだ取り組みへと発展してきている。そんな中で、「自然保護」という言葉は何だかノスタルジックな響きを感じずにはいられないし、問題を単純化させてしまうような気がする。

 環境省は国立公園のあり方を根本的に改めようと、自然公園法を改正した。それこそ今までの乱開発阻止型の公園法に「利用」の概念を加え、尚且つ地域との結びつきを深めた管理を行っていくという発想は、僕たちが考えていることと何ら変わりなく、むしろ画期的だと思っている。自然状態を保ちながら、快適な利用を実現させる・・・ある意味、矛盾した二つの概念を結びつけたチャレンジングな課題が僕たちの前に突きつけられたわけだが、それだけに僕たちは相当の想像力をもってさまざまな課題に取り組んでいく必要がある。従来の自然保護思想に縛られている場合ではない。この法改正により、地域には公園管理との関係性が求められ、行政の側には責任の線引きがはっきり明示される。国立公園を抱える地域の役割と、行政の役割、そしてそれらの連携が多くの点で書きかえられようとしている。さらに、そのモデルケースを知床で構築しようというのだから、僕たちの責任は大きい。ウトロ地域として積極的にコミットしてるのも、民間としての強い責任感からだ。

 僕たちは、自然状態を保ちつつ快適な利用を持続するという点で当然重要となってくるルールにおいて“おもてなしとしての規制”というコンセプトの必要性を提言している。知床国立公園を訪れるお客さまに“規制を規制と感じさせない”配慮を、地域民間のノウハウを導入することにより実現させるプランを環境省や斜里町に出しているのだ。「どこそこにいっちゃダメ」というネガティブシンキングではなく、「○○もいいけど、□□も最高!」というような積極的なお客さまへの逆提案、そしてその行き先々での魅力的なガイドプログラムや快適性の確保、でもお客さまの方は知らず知らずのうちに自然へのインパクトが少ない方向にいつのまにか楽しくコントロールされている、本人はコントロールされたことさえも感じないほどの満足度を提供する・・・というCS(カスタマーサティスファクション)を基本に据えた仕組みを作り出したいと思っている。間違っても、“指導員”みたいなダサい腕章をつけた勘違いボランティアおじさんが、「あなたはルール違反です!」と人を蔑んだような態度を取る公園にだけはしたくないと思う。

 しかし、このCSという考え方は、残念ながら行政の方々や旧来の自然保護思想の人たちには「顧客満足=迎合」という印象を与えているようだ。また、昔ながらの「商売=悪」みたいな構図を簡単に作り上げてしまっているのが、話をしているとよくわかる。僕は今さらCSのことや経済活動と環境保全の関係について改めて説明する気にはならない。この二つは僕が社会人として一番はじめに、そして最も大切なことのひとつとして叩き込まれたことであり、常識だと思っているから。ただ、お客さまのことを第一に考えるということは、各企業において収益をあげるということ以前に、人としての立ち位置に根ざしている。このことだけは、行政の人たちには理解してもらわなければならない。

 顧客第一主義に根ざしていない規制は強制にすぎない。もちろん、どうしても「これはやっちゃダメ!」というものもあるだろうが、何もそれを一義にすべきではないと僕は考える。結果的に保護したい自然が保護されれば、規制を規制と感じさせる必要は全くない。僕にとってはこのことはごくごく当たり前の発想なのだが、一方で「いかにも規制」という感じを好む人もいるようだ。 「自然保護」の行きつく先は、人間の活動の持続可能性を探るもののはずだ。だから、何らかの無理がかかるようなやり方では長続きしない。そして、ある意味最も恐れなければならないのは、「自然保護」議論の“封印”だ。強制というニュアンスを伴うと、僕達の思考は停止してしまう。正しいのか正しくないのか、間違っているのか間違っていないのか・・・「自然保護」という名の強制力は、そういったことを考える余地を人々から奪い取ってしまう。「そこのけそこのけ自然保護が通る」という自然を印籠にした水戸黄門を作り出すことはない。自然を保護しようという人がいて、それに対して違う視点からものをいう人がいる。僕はこういうフツーの議論をきちんと積み重ねていきたいと思う。

 僕は旧来の自然環境に関する運動や活動にずっと違和感を感じてきた。“科学的”であることが良しとされてきた自然考察の中に、“人”の姿を想像できないからだ。人間ははるか昔から自然の中で暮らしてきて、科学的ではないかもしれないけれど、自然を大切にしていくさまざまな営みが存在したはずだ。僕は僕らの世代の活動論として、そんな古くて新しい人間本来の自然とのかかわりをオルタナティブとして追求したいと思っている。自然という漠然としたテーマをテーブル乗せ、科学者から近所のオバちゃんまでが何ができるかもわからず共にかき混ぜ、誰ともなく味見をする・・・その味を人間と自然との最適な関係性として捉える。そんなラフなコンセンサスの姿を僕は描いている。

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