›6 24, 2000
何で知床に?って言われても…
最近いろいろな人から取材を受ける。
当たり前のことだが、僕の素性を聞こうとすると必ず聞かれる質問に、「何故知床に移住したのですか?」という項目がある。僕はこの質問にきちっと答えられたためしがない。しどろもどろはなしているうちに、記事には「知床の自然に魅了され移住…」と書かれることしばしば…。とても頭のよさそうな記者の方々がそう書くものだから「そういうことなのか…」なんてだんだん思い込んでしまう。いやいや違うよな、自分のアイデンティティまで人に流されてはダメだ。
僕が知床に移住を決めたのには理由があるっていえばあるし、無いっていえばない。町で部屋を探すのと同じ感覚だ。「ここだ!」というのが、僕にとっては知床であったに過ぎない。でもそのまま書いてしまえば、藤崎という人間が知床にこだわっている雰囲気が伝わらないのか、記事になるときにはもっともらしい理由がついてくる。正直くすぐったいような気がするものだ。
例えば本屋で目にとまった本、買いたくなってしまった服、好きな女性…「何で好きなの?」と聞かれてきちんと返事をできる人がいるのだろうか。理由なんて特にない。「ピンときた!」それだけなのに、人はそういった「勘(かん)」みたいなものを否定してしまう。かくいう僕にもそんなところがある。
それでは、僕が知床に感じる「フィット感」とは何なんだろう。何故ピンとくるのだろう。それは僕がガイドを通して伝えようとしている「知床の素晴らしさ」にあい通じる。
知床には人間と自然が本来持っていた「距離感」みたいなものが、かろうじて残っている。僕はこの「距離感」が何よりも気に入っている。ここには数多くの野生動物がいるが、「これ以上近付けない」距離が目に見えて保たれている。動物の方が逃げていくのは当然だが(日本じゅうそうではない地域が増えている…日光みたいに…)、人間の側も「あと一歩近づいたら逃げられちゃうな…」といった距離感を、理屈ではなく「勘」が教えてくれる。それは僕の経験上ツアーに参加するすべての人が兼ね備えている「野生の勘」だ。素晴らしい。人間にもまだまだそういった感覚が残っている。
動物に限らず自然も人間もこの距離感覚を忘れてしまうと、野生が崩れる。いわば自然界と人間の双方が侵してはならないバッファーゾーンだ。もちろんこの領域を忘れてしまっているのは主に人間の側だ。僕はどんなに深い山や森に入っていって、どんなに自然と一体となったような時間を過ごしても、自然がもう一歩踏み込んできてくれないもどかしさを感じる。ツアー中、出会ったエゾシカにお客さまが近づいていっても、寸でのところでさっと逃げられてしまう。僕はそんな距離感が残っていることにいつもホッとする。そしてこの領域を感じるのは僕らの「勘」以外の何ものでもない。
何かの本で「内なる自然破壊」という言葉を聞いたことがある。うまい言葉だ。人間はいつから自分自身の「感覚」みたいなものを否定してきたのだろう。僕にとって知床はそんな自身の自然を取り戻させてくれた場所だ。この感覚は知床で野生に触れれば、誰でも感じることができるものだが、口で説明するのは難しい。なにせ「勘」の世界なのだから…。
そうそう、先日来てくれたライターは何日か僕らと森の中に入り野生を感じた。彼女は「藤崎さんが知床に住みたくなったワケが何となくわかった。」と言ってくれたっけ。どんな記事になるのか、楽しみだなあ。